大曽根に史跡散策路を作ってみた|山田重忠ゆかりの地をつないだら、水の街づくりが見えてきた

900年前、武士の時代が始まったころ、大曽根を治めていた武将がいた。

山田重忠(やまだ・しげただ)。

大曽根には今でも、山田重忠の名が刻まれている場所があちこちにある。

重忠公はどんな街づくりをしていたのか。僕は気になっていた。

それぞれの史跡はすでに何度も歩き回っている。ただ、全部をつなげて俯瞰して見たことはない。

街づくりとは、場所と場所をつなげて広げていくもの。

ならば、重忠公ゆかりの場所を一本の道として歩いてみるか。そうすれば、重忠公の考えが少し見えてくるかもしれない。

ぐるっと10キロ。うまくつながれば、大曽根民が誇れるオリジナルの史跡散策路ができあがる。まさしく一石二鳥である。

ってなわけで、まずはバンテリンドームのすぐ近く。三菱電機のすぐ裏にある六所神社に向かった。

六所神社で、風の神様に出会う

六所神社と重忠公は一見、関わりがないように見える。

ただ、創建年を調べてみると、重忠公が大曽根を治めていたころと重なる。

もちろん、確かな史料を見つけたわけではない。それでも、時代が重なるなら想像したくなる。この神社は重忠公が建てたのではないか。そう考えながら、六所神社に入った。

境内に足を踏み入れると、いきなり空気が変わったように感じた。

キラキラとした音色が、神社全体を包んでいる。

手水の水が出る場所を囲むように、数えきれないほどのガラスの風鈴が奉納されていた。

横には、色とりどりの風車も並んでいる。まるで風の回廊のような通り道を作っていた。

神社の方に、なぜ風鈴や風車なのか聞いてみた。

「風の神様を祀ってるからですよ。風を感じてもらうためです」

なるほど。

だから風鈴であり、風車なのか。

山田重忠についても聞いてみた。すると、神社の方は呆気に取られたような顔をしていた。

僕の仮説は、まだ僕の中だけで走っているらしい。

矢田川の痕跡をたどって長母寺へ

次に向かうのは、矢田川のほとりに建つ長母寺である

長母寺へ向かう道にも、面白い見所がある。

僕が勝手に「矢田渓谷」と呼んでいる謎の地形だ。名鉄瀬戸線の矢田駅あたりに、それはある。

ここだけ、深くえぐりとられたように土地が削れている。

誰がこの土地を削ったのか。

答えは、矢田川だ。

実は、矢田川の流れはかつて矢田駅側だった。その痕跡が今も地形として残っている。

ちょっとワクワクするよね。

川の跡を眺めながら、長母寺へ向かった。

階段を上って、寺の門にたどり着く。小鳥の鳴き声しか聞こえない静かな寺だった。

ふと門を見ると、意外なものを見つけてしまった。

徳川家の家紋である三つ葉葵が刻まれた屋根瓦である。

なぜ、徳川?

疑問に思って看板を見てみると、この寺は尾張藩2代藩主・徳川光友公によって再興されたとある。

あら。こんなところでつながっていたのか。

徳川園と長母寺が。

大曽根を治めた山田重忠。
徳川園を造った徳川光友。

まさか時空を越えて、長母寺でつながっていたとは。

思わぬ発見に、興奮が止まらなかった。

大永寺で、また「あいつ」に会った

次は、大永寺へ向かう。

長母寺から大永寺へは、高蔵寺へと抜ける古い街道を行く。

そう。長母寺と大永寺は、街道でつながっている。

大永寺へ入った。

大木が風に揺れ、ザワザワと胸騒ぎするような音を奏でていた。時折、本堂の中からチリンチリンと、お経を唱える際に鳴らす音が響いてくる。

重忠公の痕跡といっても、今はもう何も残っていない。

そう思いながら、ふと本堂の柱の上を見た。

あいつがいた。

重忠公の居館跡にある地蔵堂と同じ象だった。湘南の龍口寺にもいた、あいつである。

ここにもいたのか。

というか、お寺なら割とどこにでもいるのか。思わぬところで、また妙なつながりを見つけてしまった。

幸心城跡で見えた、水の防衛線

次に向かったのは、幸心城跡の間黒神社である。

この神社は構造が不思議だ。神社の真ん中を用水路が流れている。用水路が整備されたのは、江戸時代になってからだと読んだ記憶がある。

そして、この用水路をたどっていくと、大永寺の近くに出る。

ここで、ひとつ仮説が出てくる。

用水路として「本格的に」整備されたのが江戸時代だったのではないか。

つまり、もっと前の時代から水の通り道はあったのではないか。

この用水路は、真っ直ぐではない。少し湾曲している。わざわざ神社の真ん中を通るように作られている。

これって、最初からここに水が流れていて、その上に城を建てたんじゃないだろうか。

重忠公は、水の街・大曽根を治めていた武将である。

水の怖さも、便利さも知り尽くしていたはずだ。ならば、守るため、攻めるために、水を最大限に活用したのではないか。

城は、たいてい小高い場所に作る。

幸心城があえてこの地域で一番低い場所に造られた理由も、水を軸に考えるとうなずける。

重忠公は、船で大曽根を守っていたのかもしれない。

天神橋から見えた、重忠公の大曽根

残すは、重忠公の居館跡となった。

僕は、矢田川にかかる天神橋から大曽根を眺めた。

六所神社。
長母寺。
大永寺。
幸心城。
そして居館。

重忠公ゆかりの場所は、それぞれ別々の場所にあるイメージだった。

だが、川の上から見てみると、不思議と全部がつながって見えた。

街道でつながっている。
水路でつながっている。
橋でつながっている。

その中心に見えたのは、長母寺だった。

長母寺は、人々を救済する機能を集めた寺だったと聞く。

慈悲深く聡明だったと伝わる重忠公は、人々を守るために防衛拠点を長母寺の周りに作ったのではないか。

寺を中心に、人を守る。
川を使い、道を使い、水を使う。

大曽根は、重忠公にとって「大切にしたかった街」だったのかもしれない。

居館跡の象が笑っていた

最後に、重忠公の居館跡を見に行った。

山田幼稚園にある居館跡である。

子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
残念ながら、ちょうど帰宅時間と重なってしまったので、ゆっくり見ていくのは断念した。

ちらっと地蔵堂を見ると、あいつがいた。

地蔵堂の象は、柔らかな顔をしている。

まるで重忠公が、ニッコリ笑っているみたいに見えた。

◆重忠公とはこんな人です君は山田重忠を知っているか?大曽根に今もその名を刻む伝説の武将

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