
大曽根って、何もない街だと思っていませんか?
駅前にちょっとだけ飲み屋があって、イオンがあって、バンテリンドームが近い。商店街もあるにはある。
便利だけど、通り過ぎる街。僕も、そんなふうに思っていた。
ところが最近、ある名前が妙に引っかかるようになった。
山田重忠(やまだ・しげただ)。
大曽根を歩いていると、時々その名前に出会う。
石碑、寺、神社、城跡。
最初は、「昔の偉い人なんだろうな」ぐらいだった。
ところが、調べて歩いているうちに、俄然面白くなった。なぜなら、点だったものが、線になり始めたからだ。
そして気づく。
もしかするとこの人、大曽根を「水を使って設計した武将」だったんじゃないか。そんな仮説が頭から離れなくなった。
山田重忠とは何者なのか

山田重忠は、平安末期から鎌倉初期にかけて、このあたり一帯「山田荘(やまだのしょう)」を治めていた武将だ。
今でいう名古屋市北区から、上小田井あたりの西区周辺までを含む地域だったという。つまり、大曽根を拠点にした「地元の殿様」みたいな存在だったらしい。
しかも、ただ戦っていた武将ではない。
聡明で慈悲深かったと伝わる人物で、明治時代になって功績をたたえられ、正五位を追贈されている。800年以上経ってから評価されるって、かなりの本物だと感じる。
ただ、僕が気になったのは武勇伝ではなかった。
現地を歩いていて、妙な違和感があったのだ。
なぜ、居館は矢田川のそばだったのか

重忠の居館跡とされる場所は、矢田川の近く。当時は川のほとりだったと思われる。
ここで引っかかった。
武将の居館なら城と同じ。もっと守りやすい高台を選びそうじゃないか?
見晴らしが良く、水害にも強い場所。
なのに重忠は、水辺にいたらしい。

なんでだろう。
もちろん、本当の答えは分からない。
ただ、900年前の矢田川を想像すると、少し景色が変わる。
今の川とは違う。
当時の川は、物流の大動脈だった。人が行き来し、物資が流れ、情報が動く。今でいう高速道路みたいなもの。
もし重忠が矢田川交易を掌握していたなら。もし水軍のような組織を持っていたなら。居館を水辺に置いた理由も、急に合理的に見えてくる。
川を守り、見て、使う。
もしかすると重忠は、「高台で威張る武将」じゃなく、水の流れを読む武将だったのかもしれない。
長母寺を見た時、もうひとつの違和感が生まれた

そして、もうひとつ。
長母寺。
ここで、また引っかかった。
なぜ、わざわざ小高い場所に寺を作ったのか。今の感覚だと、寺はお参りする場所。街の真ん中にあった方が便利なはず。
けれど昔の寺は違う。救済施設だった。
困った人を助け、学びの場になり、地域を支える。時には病院でもあり、避難所でもあった。
そして長母寺は、不便と思われる小高い場所にある。
矢田川は昔から暴れ川だった。水害が頻発したからこそ、この立地には意味がある。

民が逃げ込める場所。水から命を守れる場所。
つまり重忠は、戦うだけじゃなく、守ることも考えていたのではないか。ここで初めて、「聡明で慈悲深かった」という言葉に実感が湧いた。
史料だけでは分からない。
現地を歩くと、少し見えてくる。
点を線でつないだ時、景色が変わった

居館跡、長母寺、幸心城、大永寺、六所神社。
最初は、バラバラだった。ところが歩いて位置関係を見ていくと、急に景色が変わる。
川、高台、守り、交通、水害。
それぞれが、水を中心につながり始める。
もちろん、僕は歴史家じゃない。断定もできない。ただ、歩いていると妙に辻褄が合うのだ。
もしかすると山田重忠は、水を恐れ、水を使い、水を制しながら街をつくろうとしていた武将だったのかもしれない。
そう思えてくる。
山田重忠を知ると、大曽根の景色が変わる

大曽根って、ただの駅前の街だと思っていた。
けれど、900年前の景色を想像しながら歩くと、見え方が少し変わる。
ただの川が道に、ただの高台が避難場所に、ただの史跡が街づくりの痕跡に見えてくる。
点を線でつなぐと、山田重忠という武将が、水を用いて街をつくろうとしていた姿が見えてくる。
その痕跡は、今も大曽根に残っている。





