義父が紡いだ物語は、モンブランの万年筆の中で眠っていた。

2026-03-21

僕の手に握られているのは、義父が人生の全てをかけて紡いだ物語だった。

妻の実家へ遊びに行った時のこと。

リビングの棚に、万年筆が無造作に転がっていた。

義父が好きだったワインの横に、まるで忘れ去られたみたいに。

モンブランのマイスターシュテック。値段がいくらとか、そういう野暮な話はやめておこう。

「万年筆の最高峰」

そう言ってしまうのが一番早い。

義父はいつも、この万年筆を片手に新聞を隅から隅までチェックして、メモを取っていたっけ。

86歳。今はもう一人で起き上がることができず、施設で暮らしている。

あっさりと譲り受けた

だからこそ、少しためらった。

まだ元気なのに、形見をもらうみたいじゃないかって。

ただ、そのままためらっていたら、捨てられてしまうかもしれない。高級な万年筆だから惜しい、という話ではない。

僕が手元に置いておきたかったのは、畏怖の念すら抱いた義父の思いがこもった品だった。

「もし、もう必要ないのであれば譲り受けたい」

そう義父に伝えてくれるよう、義母に頼んでみた。

すると義母は、あっさりと言った。

「いいよ、持ってきな」

えっ、いいんですか?超がつく高級万年筆ですよ。しかも、愛着のある品では?

ところが義母いわく、処分しようと思っていたらしい。ただ、高そうだからそのままほかったらしになっていたという。

「使ってもらえる人の手に渡るのが、万年筆も幸せでしょ」

その一言で、僕が譲り受けることになった。

義父は、伝統を作る人だった

黒の軸に金の飾りがついたマイスターシュテック。

手に取ると、ズシリと重い。

万年筆そのものの重さもあるのだろう。けれど、それ以上に義父の人生が詰まっている。その重みが、手のひらにくる。

義父は、ただのアイデアマンじゃなかった。人知れず歴史を作り、伝統を生み出していた。

ある地方の家庭には、必ず置いてある調味料があった。

「先祖代々から使ってる」

そう言われている、その地に深く根を下ろした調味料。

ところが実は、そんなに古いものじゃない。

義父が生み出した新製品だった。

そこは、はるか昔から観光で栄える場所。観光客が集まる土地なら、豊かな食文化があり、調味料だって特別だったはず。そんな歴史と伝統の物語を、その新製品に与えたのだ。

そして売り出すや、わずか数年で「昔から使われていた伝統の味」になっていった。

とてつもないことを考える人だなぁと思う。

商品を作る。物語を与える。さらに人の記憶の置き場所まで作ってしまう。尊敬というより、畏怖の念に近かった。

義父は誇らしげに言っていた。

「伝統は作ればいいんだよ」

笑いながら、とんでもないことを言うのである。

世界を旅して、物語を持ち帰る人

そんな義父は、絵が好きだった。好きなんて言葉では足りないくらい。仕事そっちのけで絵を描いていた。朝まで描いて、そのまま仕事に行くこともあったという。

しかも、世界中を旅して、クライアントが納得する答えを見つけて帰ってくる。

だからなのか、義父の話はいつもワールドワイドだった。義父と話しているだけで、こっちまで世界を旅した気分になった。

歴史と伝統。旅の風景。異国の空気。誰も見たことのないフレッシュさ。いつもの街並みにある優しい日常。

義父は、ありとあらゆる物語を紡ぎ出していた。

眠っていた万年筆を、起こしたい

この万年筆が無限のアイデアを生み出していた。

そう思うと、手の中の一本が急にただの文房具から、物語を生み出す道具へと姿を変える。

マイスターシュテックを象徴する「4810」が刻まれたペン先。装飾品の輝きというより道具の強さを感じさせる。

キャップの先には、モンブランらしい雪の山。

きっと義父も、この万年筆を買った時、この雪山に憧れたに違いない。そして、この一本とともに新しい物語を紡ぎ出そうと燃えていたはず。

長い間、忘れ去られていたのだろう。インクは乾いていた。

インクを吸うための後ろのキャップも固着して動かない。

眠っていたんだね。

目を覚ましてあげたい。伝統を一人で生み出した、あの技を思い出してもらいたい。

この万年筆を握っていると、義父の声が聞こえてきそうだ。

「それって、どういうことなんだ?」

義父はいつも、僕にそう問いかけてくれた。

表面をなぞるだけでは足りない。本質まで降りていけ。物語を語るなら、その奥にある意味まで掘れ。

そんな叱咤が、今も手の中から伝わってくる。

大きなことはできないけど、小さなブログから

義父が生み出した数々の物語に、僕は近づけるのだろうか。

歴史と伝統を生み出す。そこまで大きなことは、僕にはできない。そう思っていた。

ところが、ふと気づいた。

僕も毎日、ブログで似たようなことをしているじゃないか。

そう気づいた瞬間、手の中の万年筆がようやく僕のところまで来た気がした。

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