
大曽根にはかつて、この地の平安を願い、刀をとって戦った武将がいたそうな。
その名は――山田重忠(しげただ)公。
…とは言っても、僕がその名前を知ったのは、ほんの数日前のこと。
史跡散策路を歩いて見つけた名前が気になって調べてみたら、思いのほかドラマチックな人生が出てきた。
大曽根を本拠に戦った武将

重忠公は、平安末期から鎌倉初期にかけての人。
日本が貴族の世から、武士の世へと移り変わる激動の時代。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代に、名古屋北西部から瀬戸、長久手あたりまでの地頭を任されたのが、この重忠公だという。
その本拠地が、ここ大曽根。
重忠公は、後に起きた承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方に味方し獅子奮迅の活躍を見せるも、壮絶な最期を京都で遂げる。
※承久の乱(1221年)は、鎌倉幕府に反発した後鳥羽上皇が立ち上がった、朝廷vs幕府のガチ内戦。
武士の世が本格的に始まる、まさに「歴史の分岐点」だった。
正直、こんなに濃ゆい人生の持ち主が、大曽根にいたなんて知らなかった。
重忠公が建てたお城があった!

調べているうちに、もうひとつ面白い話を見つけた。
矢田川と庄内川の間に、江戸時代の初期1636年に創建された「間黒(まぐろ)神社」というこじんまりとした神社がある。
ここ、実は幸心(こうしん)城という城跡の上に建てられたというのだ。
で、その幸心城を築いたのが、他でもない山田重忠公だと…。
――何!!重忠公が呼んでるぞ!これは行くしかない!
僕はすぐに自転車を走らせた。
城の跡地に建てられた間黒神社

大曽根から国道19号を北上し、矢田川にかかる天神橋を越える。
古い町工場が建ち並ぶ細い道を抜けた先に、緑がこんもりと茂った一角が見えてくる。

そこが、間黒神社だった。
小さな鳥居をくぐると、空気がガラッと変わった。
…静かだ。

小鳥の鳴き声と風の音しか聞こえない。街の喧騒が、すっと遠のく。
ふと見ると、ランドセルを背負った小学生が、境内を抜けて元気に帰っていった。
神社が、生活の中にちゃんと溶け込んでいる。
こういうの、なんかいいよね。
なぜここに城を?痕跡は?

僕が気になるのは、なぜここに城を建てたのか?
そして、城の痕跡は残っているのか?
まずは周囲をぐるっと歩いてみた。

神社の中央には、一本の用水が流れている。
でもこれは江戸時代に掘られたものらしく、重忠公の時代にはなかったようだ。



境内には、お社と神楽殿、小さな祠。
社務所はないけれど、樹齢数百年クラスの楠(くすのき)が、どっしりと根を張っている。
かつては天然の要塞だった
ここに重忠公が城を建てた理由、僕なりに仮説を立ててみた。

矢田川と庄内川という2本の大きな川に挟まれ、
さらに東側には竜泉寺がある白沢渓谷のような絶壁地形。
つまり、天然の要塞。
守るにはこれ以上ない鉄壁の立地だったのかもしれない。
それに、かつてこのあたりは沼地だったとも言われている。

つまりこういうことだ。
敵は、川を越え、泥に足をとられながら進軍してくる。
それを重忠公は、城の高台から――
悠々と、迎え撃つ。
…うん、カッコいい。妄想が止まらない(笑)
大きな石と周囲よりも高い地形
そして気づいた。
境内の地形が、ほんのわずかに周囲より高くなっている。

さらに、神社にはやたらと大きな石が転がっている。
今は祠やお社の土台として使われているけど、もしかしたら昔は砦の礎石だったのかも…?
それらを見てると、まるで石たちが何かを語りかけてくるようで――

「ここには、確かに城があったんだよ」って。
もちろん、はっきりとした痕跡は残っていない。
想像するしかない部分も多い。
でもさ、そういう“想像の余白”こそが、楽しいのかもしれない。
重忠公は確かに大曽根にいた
大曽根の伝説・山田重忠公を巡る旅。
900年近くも昔の人だけど、彼の考えたこと、選んだ場所、そしてその空気を、
少しだけでも感じられた気がする。

そして何より、知らなかった地元の英雄を知るって――
めちゃくちゃワクワクするんだよね。
まだまだ、重忠公ゆかりの地は残ってるみたい。
次はどこへ行こうか、すでに楽しみで仕方がない。
◆山田重忠公についての記事はコチラ




