大曽根には、900年前に生き、その名を忘れ去られようとしている英雄がいる。
彼の名は、山田重忠。
時は、平安から鎌倉へと時代が大きく動こうとしていた激動の頃。
そんな時代に、大曽根の地を守り抜いた男だ。
僕はいま、そんな重忠公の足跡を追いかけて歩いている。
■ ふたたび出会った石の声
今日、やってきたのは、重忠公の居館があったと伝わる場所。
今は、大応山・広福禅寺の山田幼稚園がある。
金虎酒造のすぐ近く、国道19号沿い。
目立つ場所にあるわけじゃない。普通の住宅地の中にある、ごく普通の幼稚園だ。
実はこの場所、以前にも訪れていた。
「史跡散策路」を歩いたとき、なんとなく立ち寄ったのを覚えている。

正直なところ、そのときはあまり心に残らなかった。
石碑がぽつんとあるだけ。あっさりと通り過ぎてしまった。
けれど、重忠公についてあれこれ調べていくうちに、心の中に、こんな気持ちが芽生えてきたんだ。
「実は、まだ見ぬ史跡が眠っていて、僕が来るのを待っているんじゃないか」
そんな妄想に火がついてしまった。
……いや、実際には天気が良かったから、ちょっと散歩のついでだったんだけど(笑)
■ 記憶のカケラを拾う
幼稚園の前に着いた。
園舎からは、子どもたちの元気な声が響いてくる。
この場所に、900年前の武将がいたなんて想像できるだろうか。
石碑がある。

「山田重忠舊里(ふるさと)」と刻まれた、重忠公のゆかりを示すもの。
その下には、「愛知縣」の文字があった。

どうやらこの碑は、明治になってから建てられたようだ。
周囲にも、いくつか石碑が並んでいた。
お寺の名前を示すもの。
「名古屋十名所」と書かれたもの。
そして、禅寺にある「不許葷酒入山門」の4つ。

けれど、肝心の“重忠公の存在を感じさせる何か”が、見つからない。
再び、石碑の前に立った。
通り過ぎてしまったあの日とは違う。
今は、何かを感じたくて立ち尽くしていた。
■ 黒い石碑が語る、800年越しの功績
ふと、園内に目をやる。
ひときわ黒く、ずっしりとした石碑が建っているのが見えた。
遠くから目をこらして読む。
「贈正五位山田重忠朝臣之碑」

大正時代。
重忠公が亡くなってから、およそ800年の時を経て、政府から正五位が追贈された証が、ここにあった。
800年を超えてなお、その名が讃えられたという事実。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
たとえ石碑ひとつしか残っていなくても、それを建てた人がいた。
彼の生きた証を、伝えようとした人がいた。
それだけで、この場所が少しずつ息をし始めた気がした。
■ 地蔵堂に宿る想い

さらに目を凝らすと、園の隅に小さな建物があった。
古びた地蔵堂。
まるで、時代からそっと切り離されたかのような、孤独な存在感。
気になって近寄ると、驚いた。
小さな堂の欄間には、繊細で迫力のある彫刻が刻まれていた。


正面に鶴、左右対になった獅子と象。
ひと目でわかる。これは、本気の細工だ。
どれほどの時間と手間をかけて作られたのだろう。

屋根の瓦も、小さなお堂にしては丁寧に積まれている。
このお地蔵様が、どれだけ大切にされてきたのかが、はっきり伝わってきた。
■ 未来へつながる、静かな居館の記憶
幼稚園の敷地。
隣にある金虎酒造の広いスペース。
街道沿いに、ゆとりある土地の配置。
あらためて見渡して思った。

ここは、単なる“館”ではなかったのかもしれない。
戦に備えた“平城”のような役割を果たしていた可能性もある。
歴史は語らない。
けれど、土地の形や空気は、何かを残している。
■ おわりに:重忠公の微笑みが見えた
この地に立ち、石碑を見上げ、静かにたたずむ地蔵堂の前で思った。

未来を育てる幼稚園が、かつての武将の居館跡にある。
ひっそりと、でも丁寧に守られてきた地蔵堂が残されている。
それは、誰かの信仰であり、誰かの誇りだ。
領民を愛し、信心深かったと伝えられる重忠公。
今は静かに、草葉の陰で笑っているに違いない。
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