
大曽根に、歴史上の偉人っているんだろうか?
そんなことを考えた。
大曽根をただ便利な街として語るだけじゃなく、胸を張って「この街にはこんな物語がある」と言えるものが欲しかった。
名古屋なら信長・秀吉・家康の三英傑がいる。戦国時代といえば、この地方なくして語れないって感じになっている。
ならば――
大曽根にも、街をつくった三英傑がいてもいいのでは。もし、そんな存在がいたら、NHKの大河ドラマが作られて盛り上がったりとかしちゃうかも。
そんな妄想から始まった。
調べて、歩いて、つながって。最後に見えてきたのが、この3人だった。
- 山田重忠(やまだ・しげただ)生年不明〜1221年
- 無住国師(むじゅうこくし)1227〜1312年
- 徳川光友(とくがわ・みつとも)1625〜1700年
そして僕なりに、一句にするとこうなる。
重忠がひらき 無住が救いし大曽根を 光友残して 街となりけり
これが、僕の考える「大曽根三英傑」だ。
一人目。街をひらいた山田重忠

大曽根を歩いていると、あちこちで名前を見かける。
神社。寺。史跡。
「ああ、昔の偉い人なんだろうな」
最初は、そのくらいだった。
ところが調べると、長母寺、大永寺、幸心城などを建て、街道や水路を整備し、広範囲にわたって街づくりを推し進めていた。
重忠公の史跡を見渡すと、街の地下に埋まっていた古い設計図のように見えてくる。
寺を建て、人が暮らす場所の基盤を整えた。
つまり、大曽根という街に最初の杭を打ち込んだ人。
いま僕らが歩いている大曽根の下には、重忠公が打ち込んだ杭がまだ残っている気がする。
二人目。民を救った無住国師

無住国師。
正直に言う。
最初は「誰?」だった。
ところが調べるほど、気になる。
無住国師は、難しい仏教を庶民にも分かるように語った僧だった。
説法を、物語にして伝えた。
今で言えば、難しい話を「なるほど!」と思わせながら教えてくれる人気YouTuberみたいな存在だったのかもしれない。
しかも活動の中心となったのが長母寺。

ここで飢えや水害に苦しむ民の拠り所となった。そして最後には、自ら人々の救いとなるため命を絶ったとも伝わる。
ここまで知ると、「昔の偉いお坊さん」という一言では収まらなくなる。
無住国師は、教えを人に届く形へ変え、最後の最後まで民の救いを考えた人だった。
だから僕は、無住国師は大曽根を救った人なんじゃないかと思う。
さらに驚いたのは、尾張地方の伝統芸能「尾張万歳」のルーツにも関わるとされること。
大曽根の歴史は、寺の中だけで閉じていなかった。
無住国師の教えは、庶民の暮らしや芸能にまで流れ出していた。
三人目。大曽根の宝を残した徳川光友

尾張藩二代藩主・徳川光友公。
逼迫していた藩の財政を改革し、建中寺を建立、熱田神宮を造営するなど名古屋の今を形作ったのがこの人である。
名前だけではピンとこない人も多いと思う。ただ、あの場所なら知っている人は多いはず。
徳川園。
光友公が隠居するために築かれた大曽根別邸が徳川園の元となった。
季節ごとに表情を変える庭園。散歩してもいい。写真を撮ってもいい。ぼーっと歩くだけでも気持ちいい。
大曽根に、こんな場所があるのはかなり贅沢だ。
さらに光友公は、荒廃していた長母寺の再興にも関わった。
徳川園を築き、長母寺も再び立ち上がらせた。光友公の足跡を見ると、大曽根の文化と風景を未来へ渡した人に見えてくる。
実は、3人が交わる場所がある

そしてここで、僕は鳥肌が立った。
既にお気づきのとおり、3人は同じ場所で交わっている。
それが、長母寺。
重忠公が創建し、無住国師が民を救い、光友公が再興した。
時代は違う。
それでも3人の足跡は、長母寺で一本の線になる。
長母寺に立つと、歴史なんて何もないと思っていた大曽根の足元に、800年分の時間が眠っている気がした。
大曽根には胸を張れる歴史がある

信長、秀吉、家康ほど派手ではない。
天下を取ったわけでもない。大河ドラマなんて作られるわけもない。
ただ、大曽根には確かにすごい人たちがいた。
名前を知り功績を知ると、いつもの道の見え方が少し変わる。
寺の前を通る時。庭園を歩く時。古い地名に触れる時。今の大曽根につながる物語が見えてくる。
大曽根には、語れる歴史がある。
胸を張れる物語がある。
大曽根に、誇りを持とうではないか。
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